公共の利益を創造できるリーダー開発

~旧制高校にみるリベラルアーツの習得環境の再現~

明治期から昭和前期にリーダー教育を担ってきた旧制高等学校。同世代の1%未満が対象者になり、旧帝大の定員とほぼ同じ。年齢で見ると現在の「高校の3年生(1年間)、浪人(1年間)、大学の教養課程(1年間)」の3年間に該当する。旧制高校の前進は、旧東京大学などの予備門。明治初期に外国の教官、外国の教材を咀嚼する英語、ドイツ語、フランス語を身に付ける期間。予備門で語学を身に付けていく教材は、外国の哲学書、文学書、歴史書が主。旧東京大学に入るために“語学を身に付ける目的”を実現する過程で、外国語で書かれた哲学と文学に触れ、言葉の意味を自分で調べながら、文脈で意味を理解する。速読などの処理ができないため、時間がかかる。目先では極めて非効率な状況がつづく。

現在の「高校の3年生(1年間)、浪人(1年間)、大学の教養課程(1年間)」の3年間に「なぜ、生きているのか?」「人間が生きていくとは、いったい何なのか?」を考えざる終えない状況に追い込まれる。「なぜ、そのように考えるのか?」の疑問も起こる。歴史書で時代背景を想像するようになる。ある条件のもとで「人が何を感じ、何を想い、どう動くのか?」のパターンが増える。その上でどのような手を打つことが、相手にとって、社会にとって望ましいのかを問う。この過程で感情をもつ人間の歴史にもとづいた大局観をみる習慣がついていく。

人と人とが関わることで問題が起こるが、人と人とが関わることからは逃れられないことに気づく。相手の立場から自分を観る(想像する)習慣がおのずと身に付いていく。目先の個の利益を得ようとする“卑怯”な行動、“曲がった”思考、“人に恥じる”行動と思考が、自分を生きづらくしていくことにも気づく。

「リーダーには教養が必要」と言われる背景がここにある。

旧制高校の前進の予備門では、教養を身に付けることが目的では“無かった”ことがわかる。目的は外国語で進められる大学の専門課程に対応することが目的だった。哲学、文学、歴史などを“教養・リベラルアーツ”と呼び「リーダーには教養が必要」だと言われる。教養・リベラルアーツを身に付けることを目的にしても、教養は身に付かないことは明白です。

予備門や旧制高校の3年間を通じて「人間が生きていくとは何なのか?」に向き合いながら「人間としてのあり方」を模索。「何が本質(真や善)なのか?」を問う中で「個人が利益を得ていくには、公の利益をつくっていく必要がある」ことに気が付いていく。書物から個人の思想がつくられはじめ、実際に人に関わる行動を続けざる終えない環境の中で自分を殺さずに人を傷つけず“共働する肌感覚”が養われ、個人の哲学がつくられはじめ、教養がみにつきはじめる。思想だけで止まってしまうと「なんだか鼻につく(いけすかない)」もしくは「薄い(ぺらい)」と評価される。

言われたこと、与えられたことを“ミスなくより速く処理できる”オペレーターの能力は、生きていくうえで必要。しかし、オペレーターをまとめていく、オペレーターの生活をより良くしていく役割を担うリーダーには、「人間が生きていくとは何なのか?」に向き合いながら「人間としてのあり方」を答えが出ないが模索し、その過程で「何が本質(真や善)なのか?」を答えがでなくても問い続ける思考の習慣を身に付けることが、必要だと、組織と企業のリーダー開発に約20年、関わり続けた結論です。

組織は効率をもとめていく。効率を求めるために分業が起こり組織になる。思考を止め、目先を処理する、対処することが習慣になっていく。処理と対処が習慣になると相手のことを想像できなくなる。悪気無く、自分の都合を相手に押し付けることをしてしまう。9割以上のオペレーターはそれが常識になるため、誰も違和感は起こらない。組織は誰か特定の相手の問題を解決するためにある。しかし、分業化が進むことで、特定の相手がみえなくなる、相手のことを想像できなくなる。だからこそ、教養のあるリーダーが必要になる。

どうすれば公共が正常になるのか?
人間にとって不利益になる常識が形成される前に。