観察には「良い」「悪い」「好き」「嫌い」などの判断を持ち込まない

物事をみる際に、今まで身に付けた経験と知識、そこから形成された信念が発生する。そして、自動的に物事を自分基準で判断する。判断が観察に入った直後から、観察は成立しなくなる。観察対象を歪めてしまう。認知が歪む。

新たなことをはじめる、新たな需要を創造しようとする際に、多くのことが未知。未知なことに対応していくには、まず、やったことがないことをはじめ、はじめたことで小さな反応が起こる。その小さな反応を手がかりに、次に解決する課題を見いだしていく必要がある。しかし、観察に判断が介入することで、今までの延長線上の課題を見いだしてしまう。その課題は解くべき課題ではない。解くべき課題は、自分では良い悪いの判断ができないもの。

「視点を定めて、全体をぼーっと、何も考えずにみる」

このような教育が美術教育の中にある。美術教育ではこれは先人が編み出して来た経験則の領域になる。そのため、再現性が薄く、一部の人達のセンスとしてされてしまっている。この観察の仕方を人間の原理原則にもとづいて検証をかけていくと、上記のような納得できるものになる。

新たな物事を生出すことは簡単ではない。人から承認・称賛されたり、目標が達成するような達成感も数カ月以上、得られない。それでも続けられるのは、今までとは異なるものの観方ができることの達成感、自分で自分をコントロールできている自己コントロール感が得られるため。