なぜ「頭で“わかる”」と「身体で“できる”」を区別してトレーニングしないのか?

テクノロジーが使いやすくなり。はじめる負担感が減る。試行錯誤をしなくてすむようになる。効率、生産性があがる。別の問題を解決することに試行錯誤していけばよいと思っても、そうはならない。なぜか?問題は、もとめる目的・もとめる絵・イメージと、現状を比較することで見つけていくものだから。もとめる目的・もとめる絵・イメージが無い状態で、どれだけ現状把握をしても、先に進むための問題は観えてこない。目先のできていない、目先の火消しが問題になるだけ。仕事をした気になるだけ。

知識やスキルをおぼえる。どれだけ速く、正確におぼえるかが目的になる。しかし、せっかくおぼえた知識やスキルは使われることはない。なぜか?知識やスキルは、目の前に解くべき問題があり、その問題を解くためにどうすればよいか?を試行錯誤する中で、使えるものになる。知識やスキルは抽象度が高い、汎用性がある、どこでも適用ができるが、どこにも使えないともいえる。

他人に対して「知識やスキルを習得する意欲が無い」という人がいる。意欲があるわけがない。解くべき問題が明らかになっていないのだから。

解くべき問題をみるけるためのもとめる目的・もとめる絵・イメージを構想することを伝えていく必要がそもそもある。知識やスキルを教えようとする人達ですら、もとめる目的・もとめる絵・イメージが無い場合もある。

また、現状分析ばかりをするケース。現状分析をしても、価値を生む問題は観えることは確実に無い。にもかかわらず、現状分析、ファクト集めにパワーをかける。仕事をした気になる。自己肯定感もあがる。しかし、人の役には立たない。人の役に立たない仕事は、仕事ではない。相手の利益をはかることが仕事のはじめ。

結局、それぞれの人が「どうやって生きていきたいのか?」そこにつきる。「どうやって生きていきたいのか?」これを問う教育はほぼない。今まではそれでよかった。生産する価値がある程度、わかっていた。つまり、国民、ユーザー、消費者が何を求めるかがある程度わかっていた。そのわかっているゴールに向け、より速く、よりミスなく動ける国民、社員が必要だった。

「どうやって生きていきたいのか?」これを各自が問えば良い。誰も説得力をもって、相手が納得できるように伝えられないのだから。

唯一、言えることがある。相手の利益をはかることで、結果的に自分の利益が生まれる。この利益はお金もあればお金以外の利益もある。相手のことを傷つけることで、自分が得られるのは、その直後のうっ血した感情の発散だけ。それが快になっているだけ。先々では、自分も相手も快・幸せはない。これは誰でも身体感覚でわかっていること。

あたまでわかること、たかが知れている。経験を通じて身体でわかる、身体感覚に記憶される。これがとても大事いなっている。頭でわかることは、実際にできると錯覚しやすい世の中だからこそ。