否定やネガティブな批判からは後退しか生まれない。誰も幸せにはなれない。では、どうすれば良いのか?

誰かの行為に対して、否定やネガティブな批判をする。人間、ほぼ自動的、条件反射でやってしまう。できてしまう。

否定や批判をした直後には「やってやった」「言ってやった」などの小さな達成感が発生する。ネット上であれば賛同する記号を受け取ることもある。小さな承認を得ることができる。小さな達成感と承認が得られるため、否定や批判は習慣になっていく。

小さな達成感と承認は報酬・快。行動科学、応用行動分析学の根本は「人間、『快に接近し』『不快を回避する』」。否定や批判が継続される要因が良くわかる。

また、否定や批判された側も、否定や批判をしてきた相手に対してメッセージを発する。この直後も同様。「やってやった」「言ってやった」などの小さな達成感が発生する。小さな承認を外野から得ることもある。その結果、否定や批判は当初の目的がわからなくなり、各自が快・報酬を得るための手段になっていく。

問題は何も解決できていない。結局、「各自が自分の立場から」「自分の都合を優先している」結果。「相手の立場に立ってみる」、「相手の都合を優先してみる」ことが不足している。社会的な問題解決なども同じようことがある。「社会のために」と記号は発せられるが、文脈は記号の意味を読んでいくと、明らかに「自分のため」になっている。

人間、そもそも思考することが得意ではない。「相手の立場に立ってみる」、「相手の都合を優先してみる」。立ち止まり思考する必要がある。得意ではないことは負担感が発生する。負担感は不快。人間、不快を回避する。

「人に対して寛容になりましょう」と言われて、その場でも気持ちを変えてみても、行動は変わらない。気持ちや意識、精神を変えても、行動は変わらない。変わったとしても継続することは無い。「人に対して関与になりましょう」と言葉を発した人は快を得ている。「良いことを言った」という達成感と優越感。スローガンを言う行動が継続する原因はここにある。結局、自分の立場から、自己都合を優先してしまう。悪気はない。快に自動的に接近しているだけのこと。人間、この側面は鳩やミミズと大差はない。

では、どうすれば良いのか?

目先では不快であっても、少しだけでも、ほんの数分でも立ち止まって「相手の立場に立ってみる」、「相手の都合を優先してみる」ことならできる。その積み重ね、それができる人の人数が増えていくことが、そもそも、社会的な問題解決だと私は考えています。

相手の利益をはかり、自らを繁栄させていく。目先では非効率、生産性が低いけれど、人に恥じない生き方をできるかぎりしていくことが、大人の役割でもあると思う。継続する商売も同じ。